たまには日記を。
かつての私はもっと自由だった。今は書きたいことがいっぱいあるのにうまく言葉に出来ない。
昔は個人ブログとか、mixiとかをやっていて、自分のページに好きなだけ好きなことを書いて、すごく楽しかった。
見に来るのもいつも仲良くしている身内だけで、いや、身内すらも見てなかったかも。
夜寝る暇も惜しんでHP制作をタグ打ちでしていたこともあった。
交流ももっと気軽に、今だったら絶対に出来ないようなこともしていた。若い頃の勢いって怖い。
今それらの文章を見たら、恥ずかしすぎて穴に入りたくなると思う。
実際に過去のブログが出てきてウワアァァァァァァと叫びながら消去して退会したし、現にこのはとブログだってかつての自分の記事が恥ずかしくて、リンクで表示されているとヒエっとなる。
かつての知識をもとに書いている、その当時の右往左往している記事を検索から来て読んでくださっている方もいらっしゃるようで、わあああすみません!!情報新しくしないと!いやほんとごめんなさい!みたいな気持ちになってしまったりして、数年後の自分が今書いている記事をみてそうなると思うと、どうにもこうにも文章を打つ手が止まってしまうのだ。
言葉が溢れてそれを素直に勢いと情熱のまま書き綴っていたころに比べて、最近はいろんなことを考えながら書いている。
それはブログだけじゃなくて、友達と話していても、帰宅中に「あんなこと言わなきゃよかったかな」「あーあのいい方はなかったかな」「自分の話ばかりしてしまったな」等と一人反省会をする。
そして勢い余って「何も言わなければ失敗しないのでは、いやもはや会わない、一人で生きていくのが最強で正解なのでは?」という極端な思考に陥りそうになって、いやいやそれはなにがなんでも大袈裟だろ…となってそれ以上考えるのをやめるのだ。
ブログやSNSに関しても、自分の発言に責任をもつことが少し怖くて、「やっぱ何も書かなければいいのでは?」「もうブログ更新やめようかな」という不安に襲われ「そうだ淡々と写真だけを載せてみよう」と思ったりするものの、そんな自分を押し殺した自分のブログやSNSをみて「うわぁつまんなくなったなぁ」とこれまた落ち込んだりする。
基本的に本来私はやりたいようにやり、それで好いてくれる人だけがいてくれたらいいや、100人に嫌われても1人が好いてくれるならいいわ、みたいな性格だったはずなのに、いつからこんなに憶病になってしまったのだろう。
最近Cakesというサービスを利用していて、これは月額少し支払うと、登録している人の記事を読むことができる。
お金を払ってでも読みたい!と思う記事があって、そしてこの人の記事は全部読みたい!と記事の更新を心待ちにしている。その記事の筆者は元宝塚のジェンヌさんなのだけれど、とにかく文章が明るくて面白くて読むとハッピーな気持ちになれるそんな記事を書く。
私はその記事を読んで、ああ自分をこんな風に生き生きと表現できるって素敵だなぁと彼女の生き方に憧れ、そして私ももっと文章を書いてみたいな、と思った。
そしてこうしてずっとしまい込んでいた自分の気持ちと向き合ってみることにした次第。
ドールの撮影も、前はこれもやってみたい!これを手に入れたからこれも撮ってみよう、これをこうしたらどうなるかな!?と常にワクワクしていたのだけれど、最近は楽しさやワクワクよりも、何かをし続けていないと不安になる気持ちも大きい。ドールの撮影をやめても、ドール趣味自体をやめても、きっと何もかわらないはずなのに、続けていないと何かを失いそうな気がしてしまう。
コツコツ何かを続けるのが苦手な私は、複数のことを日課にすることが苦手で、何かを始めるということは何かをやらなくなることなのだけれど、毎日やっていたことを手放すことを極端に恐れているし、罪悪感や焦燥感でいっぱいになる。
現にずっと続けていたオンラインゲームに数年ログインしていないことを気に病んでいるし、いつか戻るつもりで月額課金は続けたままだ。どうぶつの森だって一週間ログインしていない。焦る。最近の私は「これをしなくては」という気持ちに押しつぶされそう。
私は一体何と闘っているんだろう。きっと前にも書いたけれど、私は何かをきちんとやり遂げて自分が納得できる何かを残したいんだと思う。
何年先に見返しても、私はこれをやりました!と胸を張って言えるような何か。全部全部中途半端にきてしまったので。
実際にそんな風にして悩みながらも一歩一歩残してきたドール達の写真は私にとって財産で、続けてきてよかったなぁ、ブログという形でいつでも見返せる形で残してきてよかったなぁと思うから。
この年になって自分とはなんなのか、みたいなことを考え出して悶々している今日この頃だけれど、これも右往左往な日々の一つとしてここに残しておこうと思う。
ウワー明日になったら恥ずかしくて削除してるかも!